アフガニスタン アメリカ軍 現在
アフガニスタン紛争(2001年 - 現在)(アフガニスタンふんそう)では、2001年10月から現在までアフガニスタンで続いている紛争のこと。主にアフガニスタン政府やそれを支援するアメリカ合衆国や北大西洋条約機構(NATO)加盟国などとターリバーンやアルカーイダなどの武力集団の間で戦闘が行われている。 Air Force/Master Sgt. アフガニスタンの治安がまだまだよくなってない状況です。 そもそも何故、アメリカはアフガニスタンに侵攻していったのでしょうか。 その理由について、まとめてみました。 アフガニスタン紛争とは? 最初に、アフガニスタン紛争をざっと振り返ります。 このような中、アフガニスタン和平に深くかかわる米国は、現在、1万4千人規模の軍をアフガニスタンに駐留させているが、カタール・ドーハにおいて9回の交渉をタリバーンと行い、大筋合意に至り、撤退が進められると見られた。 2019年6月29日、カタールの首都ドーハにて、アフガニスタン戦争の終結に向けた和平交渉が開始された。この戦争の主要アクターは政府軍と反政府武装勢力「タリバン」。しかし、今回タリバンの交渉相手は、アフガニスタン政府ではなくアメリカ政府だ。アメリカ
アフガニスタンの現状と問題 南アジアと中央アジアの狭間に位置する多民族国家アフガニスタンは、1979年末のソ連軍侵攻以来、今日に至るまで混乱状態の中にあります。 2001年9月の開戦当初、ターリバーンの指導者の copyright honcierge 2014 中東または中央アジアに位置するしかしアフガニスタンは不幸にも、中央アジア、インド亜大陸、中東の交差点という戦略的場所に位置しているため、歴史上で何度も何度も侵略されてきました。そして、その悲しい歴史は現在にまでこの国に影を落としています。一方、国際関係やそこで、アフガニスタンについて簡潔に、ただし十分に詳しく、宗教、歴史、人口、場所の特徴などをまとめていこうと思います。アフガニスタンとは共和制国家で、公式にはアフガニスタン・イスラム共和国(Islamic Republic of Afghanistan)と呼ばれる国。中東、中央〜南アジアに位置する内陸国で、南と東をパキスタン、西をイラン、北をトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、そして北東の端を中国と接している内陸国です。その位置から、東洋と西洋が出会う場所とも言え、現在でも(狭義のアフガン人である)一方で、地政学的な理由から大国が何度も干渉してきた結果、国内では内戦が広がって無秩序・無法状態となります。その混乱に乗じて台頭してきたイスラム主義組織のタリバンと、そのタリバンを追放しようと応戦するNATO・現政府軍の戦いが続き、アフガニスタンは疲弊し、未だに国内は混乱状態に陥ってしまっています。アフガニスタンは、中東、中央〜南アジアに位置する内陸国で、南と東をパキスタン、西をイラン、北をトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、そして北東の端を中国と接している内陸国と言うのは既に触れた通り。その位置を地図で確認してみると、以下のようになっています。その国土の面積はおよそ65万平方キロメートルで、これは関東二つ分の広さとほぼ一緒(そして、アフガニスタンの大部分はヒンドゥークシュ山脈の中にありますが、低地の砂漠地帯もいくらかあるのが特徴です。また、その場所の地形から、最も標高が高い地点は7,486mのノシャックで、最も標高が低い地点でもアムダリヤ川の258mと、平均的な海抜が高く、例えば首都カブールの平均標高は1800mあるとされます。一方で、非常に自然が綺麗な国ではありますが、山が多くて乾燥した国であるアフガニスタンには、農耕地が思ったほどありません。わずか12%程度が耕地向きで、実際に継続して農業用の土地として使われているのは、国土の1%にも満たないと言います。アフガニスタンの気候は、とても乾燥していて季節的。ただし、場所によって標高が異なるため、同じ季節であっても地域によってかなりの気温の差があるのが特徴です。例えば、7月のカブールは38度程度まで気温が上がるのに対して、ジャラーラーバードは45度以上になる日もあるといった具合です。また、砂漠地帯では強烈な砂嵐が起こり、風速が最大時速177kmになることもあります。また、場所に関する情報としてアフガニスタンの首都と主要都市を、人口規模を合わせて紹介すると次の通りになります。現在のアフガニスタンにおいて、人口の99%以上がイスラム教を信仰するムスリム。ただし、ムスリムと言っても、そのうちおよそ80〜90%はスンニ派で、残りの10〜15%程度がシーア派となっており、シーア派の多くはアフガニスタンにおける少数民族の一方、残りの1%弱には、約20,000人のバハーイー教徒また、1980年代中盤までは、30,000〜150,000人のヒンドゥー教徒とシーク教徒がアフガニスタンに住んでいたとされますが、タリバン政権が台頭してきた結果、現在ではわずかしかアフガニスタン国内に残っていません。そして同じように、数は少ないものの、過去にはユダヤ人達も住んでいましたが、1979年にソビエト連邦がアフガニスタンへ信仰した際に国外へ逃げ出し、2005年まで唯一アフガニスタン国内に残っていたユダヤ人、ザブロン・シミントヴ(Sablon Simintov)も、すでにアフガニスタンにいない可能性が高く、基本的に現在のアフガニスタンにはユダヤ人は居住していないと考えて良いかと思います。現在、アフガニスタンの人口はおよそ3500万人弱(2016年時点)と推定されています。多民族国家であるため複数の民族が居住しており、単一の民族だけで人口の過半数を超えるものは存在していないほどです。その人口における民族比の具体的な内訳は以下の通り。また、アフガニスタン人の平均寿命は男性で61歳、女性で64歳となっており多民族国家であるアフガニスタンには数多くの言語が存在しますが、公用語として制定されているのはダリー語とパシュトー語。両言語ともインド・ヨーロッパ語族のイラン語群に属し、また両方とも、少し変化が加えられたアラビア文字で表記されます。また、公用語ではありませんが、アフガニスタンでは他にもハザラギ語、ウズベク語、トルクメン語などが使われています。ちなみに、ダリー語はペルシャ語のアフガニスタン方言で、隣国のイラン人とは相互に理解が可能。アフガニスタン人のおよそ30%がダリー語を母語として使います。それに対して、パシュトー語はアフガニスタンの最大民族パシュトゥーン人の母語であり、国内ではおよそ40〜45%のアフガニスタン人がこの言葉を母語として話します。アフガニスタンはイスラム共和制であり、大統領によって率いられ、大統領の人気は5年間。最長2期まで務めることが出来、3選は禁止されています。一方、アフガニスタンの国会は二院制で、102議席の上院に相当する長老議会と、249議席の下院に相当する人民議会で構成されています。また、最高裁判所の裁判官は9人。大統領からの任命を受けて10年の任期で配置され、また、それらの裁判官の任命には人民議会の承認が必要です。アフガニスタンは、地球上で最も貧しい国の1つ。1人当たりのGDPはPPPベース(購買力平価)で年間およそ1,900USドル。名目GDPで見た場合は年間600USドルに届きません。そのため、アフガニスタン国民の多くが貧困状態に陥っており、自国だけでは経済が成り立たないため、多くの外国援助を受けており、その合計支援額は年間数十億米ドルに上ります。また、労働者のおよそ80%が農業に携わっており、工業とサービス業はそれぞれ10%前後だとされています。そのようなアフガニスタンにとって最も貴重な輸出品はアヘン。このアヘンが隣国の国を通ってロシアや中国に広がっているため、国際的なアヘン撲滅運動が行われています。その他の輸出品には、小麦、綿、羊毛、手織りのじゅうたん、宝石などがある一方、社会を回すために必要な食料やエネルギーは、多くを海外からの輸入に頼っている状態です。アフガニスタンには、少なくとも50,000年前には人が定住していたと言われ、ムンディガクやバルフといった古い街は、約5,000年前には誕生しており、インドのアーリア人文化と関係があった可能性が高いことが示唆されています。紀元前700年頃には、メディア王国の支配がアフガニスタンにまで拡大しました。メディア人は現在のイラン北西部に広がっていた人々紀元前550年には、ペルシャ人がメディア人に取って代わり、アケメネス朝をアフガニスタンの一部を含むこの地域に建国します。そして、紀元前328年にはアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)がアフガニスタンに侵攻し、バクトリア(バルフ)を首都として、帝国の一部に取り込みます。しかし、紀元前150年頃には、この地に台頭してきたクシャーナ朝によってギリシャ人達は追放されてしまいます。その後アフガニスタンは、遊牧イラン人が建てたパルティア(古代イランの王朝)によって支配され、その支配は300年頃まで続いた後、サーサーン朝が支配権を握っていったのです。サーサーン朝の支配下にあった時、ほとんどのアフガニスタン人は、ヒンドゥー教徒か仏教徒、またはゾロアスター教徒でした。しかし、642年にアラブ人が侵攻してくると、イスラム教が持ち込まれます。アラブ人はサーサーン朝に勝利してこの地を支配した結果、この地に住む多くの人々はイスラム教とに改修してムスリムになったのです。しかし、アラブ人の支配は870年までしか続かず、その後は再びペルシャ人がこの地を治めることになります。ペルシャ人の支配はしばらく続きますが、1220年にはチンギス・ハーン率いるモンゴル軍がアフガニスタンを征服。このモンゴルの末裔は、1747年までアフガニスタンの大部分を支配するのです。ちなみに、このモンゴル人の末裔が、アフガニスタン人の中でも東アジア人の特徴を色濃く持つハザラ人だと言われます。1747年、パシュトゥーン人であるアフマド・シャー・ドゥッラーニーによってドゥッラーニー帝国が建国されたことで、アフガニスタンにおけるモンゴル人の治世は衰えていくことになります。またこれが、近代のアフガニスタンの起源であるとされます。19世紀には、「グレート・ゲーム」と呼ばれる、中央アジアの支配をめぐるロシアとイギリスの競争が高まりました。結果、イギリスとアフガニスタンは、1839〜1842年と1878〜1880年に2回の戦争をしています。イギリスは、第一次アングロ・アフガン戦争でアフガニスタンに完敗しましたが、第二次アングロ・アフガン戦争以降はアフガニスタン対外関係(外交)の支配権を得ることに成功したのです。その後、第一次世界大戦が始まっていきますが、当初アフガニスタンは中立的でした。しかし、当時のアフガニスタン国王ハビーブッラー・ハーンは、イギリス寄りの考えを持っていると噂されて1919年に暗殺されます。同年ハビーブッラーの弟であるアマーヌッラーが国王として即位、アフガニスタンはインドのイギリス領を攻撃し、イギリスが持つアフガニスタン対外関係の支配権を放棄するよう促し、アフガニスタンの独立が認められます。また同時に、ロシア・ソビエト連邦と外交関係を樹立し、1926年にはソビエトと中立及び相互不可侵条約を締結しています。このアマーヌッラーが1929年に国王から退くと、アマーヌッラーの従兄弟であるムハンマド・ナーディル・シャーが王になりましたが、反ハザラ人政策を取ったことでハザラ人から反感を買い、4年後の1933年に暗殺されてしまいます。それからは、ムハンマド・ナーディル・シャーの息子であるムハンマド・ザーヒル・シャーが1933年に王位に就きました。しかし、彼の従兄弟にあたるムハンマド・ダーウードは、アフガニスタンは共和国であるべきだと主張してクーデターを起こし、ムハンマド・ザーヒル・シャーは1973年に追放されてしまいます。すると今度は、ソビエト連邦の支援を受けてマルクス主義を取り入れたアフガニスタン人民民主党(PDPA)によって、1978年に次はムハンマド・ダーウードが追放されてしまうのです。この時、ソビエト連邦は政情不安を利用して、1926年に締結した中立及び相互不可侵条約を無視。1979年にアフガニスタンに侵攻して、その後10年間留まることになります。1989年にソ連軍が撤退すると、アフガニスタン統治に空白が生まれ、国内の支配圏を巡ってアフガニスタン紛争が始まります。その中で1996年には過激派組織タリバンに支配権が移ります。そしてタリバン政権は、ウサマ・ビン・ラディンとアルカイダを支援しているとして、アメリカ主導の作戦によって劣勢に立たされていきます。その後、国際連合安全保障理事会の国際治安支援部隊の支援を受け、アフガニスタンには新しい政府が誕生しました。この新しい政府は、タリバンによる反乱と影の政府と戦うため、引き続きアメリカ主導のNATO軍から支援を受け、一方でタリバンは引き続きテロを起こすなど、まだ混乱が収まっていないのです。アフガニスタンは、歴史的に様々な民族や国にとって要所にあったため、人口は多民族化し、また、悲しいことになんども紛争などに巻き込まれてきた国です。しかし、このような国こそが安定して初めて国際社会の平和や安全が確立するため、決して無視してはいけない重要な国の一つだと言えます。email 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