ペトロ の手紙 二 3章

ペトロ の手紙 二 3章


・富・宗教…)にしがみついても羽化(復活)はできません。エジプトの宰相となったヨセフの遺言は、「私は…死にます。…神は必ずあなたたちを顧みて…この国からアブラハム…に誓われた土地に導き上ってくださいます。…そのときには、私の骨をここから携え上ってください」(創50ç« 24~25節)でした。彼は、エジプトに豪勢な墓を造り功績を誇ることもできました。しかし、自分の墓をエジプトに造り、民がここに居着くことを恐れ、ミイラにして保存し出エジプトの時に携え行くように命じました。これらのものと言われる、「信仰、徳、知識、自制、忍耐、信心、兄弟愛、愛」などは、努力なしに自動的に備わるものでありません。身に着けるためには、祈りと共に、力を尽し、心を尽くしてこそ得られます。聖書は、「啓示」の書です。啓示とは、神が人に理解できるように御自分を示されることです。その最大の啓示こそ、神の御子イエスの来臨でした。「言(神)は肉(人)となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハ1章14節)。見えるもの(自然界)は見えないもの(霊の世界)から出てきたとあります(ヘブ11章3節参照)。そこから逆に、見えるものから見えないものを見ることも可能です。神はその一例として、「トンボとヤゴ」を通して人の人生を教えています。王に一万タラントの借金をしていた家来がいた。持ち物も家族も売って返すように命じるができないので、哀れに思って赦した。赦された者が帰る途中、百デナリオン貸していた家来に出会い、返せないとわかると牢にまで入れてしまった(マタ18章参照)。それを聞いた王は怒り、その人を牢役人に引き渡した。これらを備えていない者は、視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています。 244-245 ; レジス・ビュルネ 2005, pp. 124-125)。 ^ 3章2・3節とユダ書17・18節も並行している(速水 1991, p. 475)。 ^ もっとも、第二ペトロ書にも、エノク書などから採られていると推測されている題材は含まれている(ヨハネス・シュナイダー 1975, pp.
神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。 ペトロの第二の手紙の主なメッセージは、冒頭の、「主イエスを正しく知ることによる恵みと平和」です。

^ 3章2・3節とユダ書17・18節も並行している(速水 1991, p. 475)。 ^ もっとも、第二ペトロ書にも、エノク書などから採られていると推測されている題材は含まれている(ヨハネス・シュナイダー 1975, pp.

聖書, Bible, 新共同訳, ペトロの手紙2 01:01イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人 … 244-245 ; レジス・ビュルネ 2005, pp. バラムはそれに対して、確かに神に承認を求めたものの(18節以下、20節)、その心は神の前に白紙ではなかったということでしょう。それが、神の御言葉を取り次ぐべき預言者にとって、「常軌を逸した行い」になってしまうのです。それで、ろばには見えた主の使いが、預言者バラムには見えなかったわけです。聖書が書かれた時代、キリスト者たちはこの世では全く少数派でした。ローマ皇帝による迫害の前に、風前の灯といった有様でした。けれども、主の御旨を悟り、聖霊の力を受けた弟子たちは、福音宣教に邁進しました。迫害者であったパウロも復活の主と出会って伝道者となり、世界宣教の働きが開始されました(使徒言行録13章以下)。「預言者の常軌を逸した行い」というのは、民数記を読む限り、何を指しているのか分かり難いところがあります。15節の「不義のもうけを好み」という表現から、バラクがバラムを厚遇し、あなたが言われることは何でもするという(民数記22章17節)、白紙の小切手に好きな金額を書けというような条件に心動かされたことを指しているのでしょう。12~15節によれば、著者は殉教を覚悟しており、いわば遺言として本書を記しています。著者は本書で、救い主イエス・キリストの永遠の御国に入る希望を絶えず想起させて(11節)、読者を励まそうとしています(13節)。ところが、行く途中で主の使いが抜き身の剣をかざして道に立ちふさがっているのをろばが見つけ、道をそれようとします。バラムには主の使いが見えないので、ろばを叩いて道に戻そうとするのです。そのとき、ろばが口を開いて、バラムを諌めるという話です。この「ダン」という名前が、「裁き」という意味であるというのは、偶然で済ませるわけにはいかないものを感じます。神の祭司たる者が御言葉に立ってしっかり行動しなければ、民も神の裁きを免れない結果を生んでしまうのです。ヨハネも「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」(第一ヨハネ書3章2,3節)と言います。しかし、バラムは馬鹿だなあと笑えばすむという話ではありません。士師記18章に、エフライム族のミカの家に寄宿していたレビ人が、待遇面でダン族の祭司に乗り換えるという話があります。同18章30節に「モーセの孫でゲルショムの子であるヨナタンとその子孫が、その地の民が捕囚とされる日まで、ダンの部族の祭司を勤めた」と記されています。「霊の結ぶ実」は九つの徳目で表されています。しかし「実」は単数形です。それは、心を表現しているのです。霊の実とは、九つの徳が満ちているキリストのご人格を示しています。パウロはキリストのご人格を、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という九つの徳目で表現したわけです。そして、聖霊がキリストのご人格という実を私たちの心に結ばせてくださるというのです。神ならぬものに目が眩まされていないか、心と思いを点検する必要がありそうです。1章9節に「これら(5節以下の八つの徳目)を備えていない者は、視力を失っています」と記されていました。本書の著者は「イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロ」(1節)と言い、18節で「聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いた」と、「主イエスの変貌」(マルコ9章2節以下など)の目撃者として、自分がペトロであることを主張しているようです。その関連で考えると、この箇所で8つの徳目が掲げられているのは、ペトロがこれを主イエスのご人格と考えているのではないかと思われます。このキリストのご人格というのを、4節で「神の本性」と表現しています。キリストは私たちが神の本性に与るようにしてくださったのだから、8つの徳目を備えなさいというわけです。しかしながら、本書がペトロの手紙だと確認されたのは4世紀末の370年代になってからで、それ以前は、真性のペトロの手紙とは見なされていませんでした。そもそも、使徒たちから直接教えを受けた使徒教父と呼ばれる指導者たち、その次の世代の教会教父たちは、本書の存在に全く言及していません。今日、本書の真正性を支持する著名は研究者は殆どいないと言われています。そこには、「再臨の遅延」という問題があり、グノーシス派の異端の教師によって初代教会の終末の希望は間違っていたという論拠に利用されました(3章4節参照)。その問題に対する正しい認識、信仰を持ち、偽教師に惑わされないように警告するために、著者は筆をとったのです。「偽教師」(1節)と言われているのは、放縦なグノーシス主義者と見做されています。「彼らは、滅びをもたらす異端を密かに持ち込み、自分たちを贖ってくださる主を拒否しました」(1節)、「しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています」(2節)、「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします」(3節)などと記されています。私たちには二つのこと、「御国が来ますように」という祈りと、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と周りの人、家族や友達に伝えて行く責任があるのです。そうして終末の到来を待望し、その到来を早めるようにせよと語られている命令に応えることが出来るでしょう。神の御前に謙り、謙遜に従順にキリストの御言葉を聴きましょう。信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉から始まるからです(ローマ書10章17節)。5~8節に、8つの徳目が記されています。力を尽くして、主イエスを信じる信仰の上に徳、知識、自制、忍耐、信心、兄弟愛、そして愛を加えよと言われます。この徳目は、ガラテヤ書5章22,23節の「霊の結ぶ実」に似ています。主イエスがこれらのことを語られ、宣教の命令を与えられてから2000年、全世界にこの教えが広められて来ました。それは、神が私たち人間を愛しておられるからです。一人も滅びないようにと忍耐しておられる姿は、放蕩息子の帰りをひたすら待っている父親の姿です(ルカ福音書15章11節以下)。冒頭の言葉(16節)は、民数記22章22節以下の物語を指しています。バラムという預言者が、モアブ人のバラクという王様にイスラエルに呪いをかけるように要請されました。最初は断りますが、二度目には神の承認を受けて行くことにしました。神の本性に与るとは、「神の本性を分け持つ仲間、パートナーになる」(ゲネースセ・セイアス・コウノーノイ・フセオース:ye might be partakers of the devine nature)という言葉です。パウロが、教会はキリストの体であり、信徒一人一人はその部分であるといった言葉(第一コリント書12章12節以下、27節など)を思わせる表現です「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」と言われました(マタイ福音書24章14節)。つまり、神の国がやってくるためには、全世界に福音が宣べ伝えられなくてはならないということになります。ペトロはそのことを、「神と私たちの主イエスを知る」(2節)と表現します。「知る」も、3節の「認識」と同じ「エピグノーシス」という言葉で、8節にも「キリストを知る」というところに用いられています。この用語法から、これが本書において重要な鍵言葉であることを表しています。そしてそれは、主イエスとの深い交わりを通して、神の本性を分与されるという仕方で体得した深い認識なのです。主イエスは、「神の国は近づいた」(マルコ福音書1章15節)という言葉で宣教を始められ、そして、「御国が来ますように」(マタイ福音書6章10節)と祈るように教えられました。それは、「主の祈り」といわれる祈りの一部です。キリスト者は、食前を始め、起床・就寝のおり、その他様々なときに、神に祈るという習慣を持っています。その中で、一日に一度は「主の祈り」を祈りましょう。「御国を来たらせたまえ」と祈りましょう。しかしながら、3章1節で本書が著者の二番目の手紙だと明言されており、そこで前提となっている最初の手紙が第一ペトロ書のことだとすれば、同じように小アジアの北部および西部にいる異邦人キリスト者の集会に宛ててローマから書き送られたものといってもよいでしょう。2章には「偽教師についての警告」が記されていますが、その用語と内容、思想は、ユダの手紙3~13節の論述と一致しています。学者たちは、ユダの手紙の方が先に書かれたと見るべき十分な根拠があると言います。そして、キリスト者として終末に臨む態度について、11節以下に記しています。その中で、冒頭の言葉(12節)に言われている「神の国の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべき」ということについて、考えてみましょう。まず、「早めるようにすべき」というのですから、著者はそうすることが出来ると考えていることが分かります。ろばに諌められて心が落ち着いたとき、神がバラムの目を開かれ、彼も主の使いを見ることが出来ました。そして、この出来事を通して、バラムは預言者としてもう一度、ただ神を仰ぎ、神が語らせるまま、その御言葉を語るということを学んだのです。また、「わたしたちは皆、顔の覆いをのぞかれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(第二コリント書3章18節)という言葉もあります。教会を神の宮としてその内に宿られる聖霊の働きにより、キリストと似た者となるように造り変えられるのです。15節から、ユダの手紙11節に列挙されている旧約聖書の三つの例の中から「バラム」の例だけを取り上げています。バラムという人物が偽教師を特徴づけるのにうってつけと、著者が考えたのでしょう。それは、偽教師が神に示された正しい道を捨て、迷いの道に入って行ったという点で、バラムと同じだと考えたということです。著者は第2世紀のキリスト教教師で、紀元120年から150年の間に、本書を執筆したものと想定されています。であれば、新約聖書中最後に執筆されたものということになります。1,2節に挨拶を記した後、冒頭の言葉(3節)で、自分たちに与えられている注意を向けさせます。主イエスの持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものが与えられました。それはキリストを「認識」(エピグノーシス)することによって与えられたのです。主の祈りは主イエスが祈っておられた祈りで、それを私たちに教えてくださったという意味で、「主の祈り」と言われているわけです。だから、私たちが主の祈りを祈ることはとても大切で、私たちの祈りの姿勢、信仰の姿勢を正しくしてくださいます。それによって、御国の到来を早めるようにすべきだという神の御心に応えることが出来るでしょう。聖書を読んだことがない、イエス様のことを聞いたことがないという人がいなくなるように、私たちには、主イエスの福音を伝える責任があるのです。神様は、私たちがすべての人に福音を宣べ伝え終わるのを待っておられるわけです。福音が伝えられれば、終わりの日が来る、神の御国を完成してくださるというのです。このダンの町には、後にイスラエルが分裂して北イスラエル王国となったとき、初代の王ヤロブアムによって金の子牛の神像が置かれました(列王記上12章29節)。そして、やがてその罪が、アッシリアによる北イスラエル王国の滅亡と捕囚というかたちで裁かれるのです。「力を尽くして」(5節)と言われますが、どのくらい努力すれば、神の本性を身に着けることが出来るのでしょうか。人間が自分の努力で神の本性を獲得出来るはずがないでしょう。しかし、無理だから身につけなくてよいというのでもありません。主イエスは、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタイ福音書18章3節)と、(大人の)弟子たちに教えておられます。子供には見えて、大人に見えない世界があるのです。見えないものを見えると言い張るところに罪があるとも言われます(ヨハネ福音書9章41節:口語訳)。ヨハネ福音書3章16節では、神を信じる者が一人も滅びないように、独り子を遣わされた、と神様の御愛を表現しています。神は確かに、すべての人が救われることを望んでおられます(第一テモテ書2章4節)。そして、「主の日は盗人のようにやってくる」(10節)という言葉で、そのときは神が定めておられること、また、到来が次第に明らかになるというのではなく、突然訪れるということを教えます。私たちも、命と信心にかかわるすべてのものを与えてくださった主イエスの御言葉を信じ、さらに深く主を知るために、御言葉と祈りを通して開かれる主との親しい交わりに、聖霊の導きを祈り求めつつ力を尽くして努めて行きたいと思います。3章では、主イエスの再臨と世の終わりの到来がテーマになっています。しかしながら、当時の人々は、それが遅いこと、あるいは、ないかも知れないと考え始めていたようです(4節参照)。そのことについて、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(8節)と言って、神と人間の時間の感覚が違うことを示します。私たちにも宣教命令が与えられています(マタイ福音書28章18節以下)。主が再臨される日まで、主に委ねられた賜物を用いて、働かなければなりません(ルカ福音書19章11節以下、特に13節)。今は、主に命じられた福音宣教、世界伝道のときなのです。ペトロの第二の手紙について、宛名と祝福の祈りが一般的な言葉で述べられているので(1,2節)、本書の読者がはっきりと限定されているわけではありません。まさに公同書簡です。そして、「この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗やみが用意されているのです」(17節)と、ユダ書12,13節を援用しつつ偽教師を描写します。彼らは水のない泉や嵐に吹き払われる霧に等しく(箴言25章14節参照)、本質は見せかけと異なって人を欺き、実を結ぶ働きをもたらせないので、深い闇が彼らに対する罰として迫ってくるのです(4節)。また、「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(9節)と語り、神が世の終わりを待望しておられること、それはすべての人々の悔い改めのときとなることを期待しておられると言います。
Ⅰペテロ3章1~7節: 19: 2016年03月27日 「群として神を仰ぎ、神の目が注がれる集団に」 Ⅰペテロ3章8~12節: 20: 2016年04月03日 「寄留者人生にとって大事な向かい方を現す」 Ⅰペテロ3章13~17節: 21: 2016年04月10日 「見える世界と見えない世界を両立して生きる」 Ⅱペトロ1章2節 . 124-125)。 」 ペトロの手紙二1章3節 ペトロの第二の手紙について、宛名と祝福の祈りが一般的な言葉で述べられているので(1,2節)、本書の読者がはっきりと限定されているわけではありません。まさに公同書簡で …

ペテロの手紙第二3章を学びます。ここでのテーマは「主の忍耐」です。ペテロの第二の手紙のテーマは、「主イエス・キリストの恵みと知識によって成長し、また無節操な者の誘惑に引き寄せられずに、堅実さを失わない。」であります。 お問い合わせの際には、だいたい一週間以内にお返事を差し上げますが、お返事のない場合は、お問い合わせフォームに入力されたメールアドレスに間違いがあるか、アドレスに返信不可のプロテクトがかかっている場合があります。その場合は、ご容赦いただけますようによろしくお願いいたします。②失われた者を勝ち取っていく(15節)主の忍耐は救いだ。一人でも失われる者がいないために、一人も滅びないように、この思いをはっきりと教会で教えられていく必要がある。①聖い生き方をする(11-14節)ペテロは、変貌山にてこの世にはない神の聖さを目の当たりにしている。私たちもどこかで神の聖さを目撃し、人間にはない聖さを求める経験に導かれなくてはいけない。自分の義を磨くような生き方ではだめなのである。私の願いは、聖書が日本国民の愛読書となることです。聖書通読ブログ、「箴言」冊子化、300部配布プロジェクト(100万)のためにご支援をよろしくお願いいたします。(ご支援いただいた方には、一冊贈呈いたします。その再臨が遅れているのは、8、9節。理由なきことではない。神が「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるから」である。ペテロが引用するのは、詩篇90:4「まことに、あなたの目には、千年もきのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです」である。それは、神が物事を見る見方と、私たちが見る見方は違うことを語っている。神は急ぐことも、遅れることもない。神はちょうどよい時を待っておられる。そして神は、一瞬にしてその時をもたらされる。それはちょうど、天地創造や、出エジプトの出来事と同じである。人が千年かかるところを神は1日で成し遂げられる。神は一瞬で世を終わらせることがおできになるが、その一瞬を神は憐れみの故に遅らせている。神は、悪者の死さえ喜ばないお方だからだ。神は忍耐強く待ち望み、一人でも救われる人が起こされるのを待つ。私たちの宣教は、すべての人を悔い改めと、神との祝福された関係に導くためのものである。世の光放送ラジオメッセージと連動した、ブログの音声メッセージです。ぜひ次のリンクから視聴してください。パスタ―まことの聖書通読一日一生(第四シーズン 16年目になりました!)③成長する(18節)「無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことのならないようにしなさい」人は他人に影響されやすい者である。だからこそ、いつでも目標を見失わず「救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長する者でありたい(18節)メールアドレスを記入して登録をすれば、更新版をメールで受信できます(無料)。記憶を呼び覚ませ、と語るペテロの頭には、おそらく、イエスのたとえばなしがあったのだろう(ルカ12:35-48)。食べたり飲んだり、酒に酔ったり、主人の帰りを覚えずに、自分の思うままに、場当たりの生活をする、そういう現実が私たちにはある。それではだめで、目を覚まして、心を奮い立たせて、緊張感をもって礼拝をし、奉仕に励みたい。なぜなら、神が再臨されるのは真実だからだ、というわけである。そもそも、神の審判の教えは、イエスに始まったことではない。ペテロは歴史的にこれを裏付ける。それは、聖なる預言者たちによって前もって語られ、使徒たちも、語ったことである、と。確かに、エノクの時代から神のさばきのことばは語られてきている(ユダ14)。また、多くの預言者も語ってきた(イザヤ2:10-22、13:6-16、エレミヤ30:7、ダニエル12:1、ヨエル、アモス5:18-20、ゼパニヤ、ゼカリヤ12:1-14:3)。パウロは、1テサロニケ5章と2テサロニケ1-2章で、その教えを詳しく展開している。さらに、使徒ヨハネも黙示録で、神の審判を神の啓示として語っている。偽教師を攻撃することから、忠実な信徒を励ますことへ、さらに、偽教師の品性を解き明かすことから偽教師の具体的な教えに対する正しい教理(再臨)を解き明かすことへと話題は転じる。キリストは、栄光のうちに、再臨されることを明言したが、偽教師は、それを否定した。ここに、2章のような品性堕落の原因がある。支配者であり審判者である神の前に立つ意識が薄れると、私たちの信仰生活も、教会生活もいい加減になりやすい。 ペトロの手紙二 3章17~18節 ルターの著作の翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会) このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。

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