ヨハネ 20章 説教

ヨハネ 20章 説教

2020年5月3日 礼拝説教 「ヨハネのペンテコステ」 中道善次牧師 <ヨハネ福音書 20章19~23節> イントロ:おはようございます。今朝もご一緒に礼拝を守れる恵みを感謝いたします。 私たちの教会の「出前礼拝」は、チームで行っております。 ・イエスが弟子たちに最初に現れられた時、トマスはそこにいませんでした。他の弟子たちが「私たちは主を見た」と言ってもトマスは信じません。彼は言います「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない」(20:25)。トマスはイエスのために死のうとさえ思った人物です。イエスが危険の待つエルサレムに行こうと言われた時、トマスは「私たちも行って、一緒に死のうではないか」(11:16)言います。しかし、イエスが捕らえられると、怖くなって逃げました。彼は自分の弱さを責め続けていました。安易に赦されるとは思えません。他の弟子たちのように、単純に信じることも出来ません。その彼のためにイエスが再び体を示されたとヨハネは伝えます。復活から8日目の日曜日、イエスは再び現れ、トマスを見つめて言われます「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい」(20:27)。  1.イエスは父に至る道   ・ヨハネ14章は、死を前にしたイエスの訣別説教である。最後の晩餐の時、ユダはイエスを売るために既に部屋を出た。やがてイエスを逮捕する兵士たちが来るだろう。弟子たちの間に動揺が広がった。 -ヨハネ14:1‐4「『心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい。私の父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろう。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来てあなたがたを私のもとに迎える。こう ...  1.エジプトのイスラエル人   ・創世記はヤコブと息子たちがエジプトに下ったことで終わり、それを継承して出エジプト記が書かれる。 ―出エジプト記1:1-7「ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン、ベニヤミン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル。ヤコブの腰から出た子、孫の数は全部で七十人であった。ヨセフは既にエジプトにいた。ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、イスラエルの人々は子 ...・イエスはトマスのために再度来られ、「私の傷に触れよ」と言われました。「私はお前が神を信じることができることを願って十字架に死んだ。まだ信じることが出来ないならば、私はもう一度十字架にかかる。お前のためであれば、何度でも十字架につく」とイエスは言外に言われたのです。この言葉を前にトマスはひざまずき、告白します「わが主、わが神」。ここに初めて、イエスを神と認める信仰告白が為されています。イエスを神と信じ、彼の前に最初にひざまずいたのは、弟子の代表格に当たるペテロでもヨハネでもなく、疑い深いトマスでした。・復活のイエスに出会った者はどのような生き方をするのか、八木重吉の詩は復活の命を生きるとはどのような生き方かを私たちに示します。彼は歌います「キリストわれによみがえれば/よみがえりにあたいするもの/すべていのちをふきかえしゆくなり/うらぶれはてしわれなりしかど/あたいなきすぎこしかたにはあらじとおもう」(八木重吉詩集「春の水」から)。八木重吉は英語教師をしていましたが、結核により29歳で亡くなります。苦労の多い生涯でした。代々木上原教会の村上伸牧師はこの詩を次のように解説します「キリストが復活した。彼の命が私のなかに受け継がれる。キリストが私の内によみがえる。そうすると、私の中でよみがえりに値するもの、こころざしや愛や祈りはすべての命を吹き返して行く。どんなに不幸で惨めな過去を持っていたとしても、私はもうその過去に縛られることはない。私のなかによみがえられたキリストと共に先に向かっていく」(代々木上原教会2008.3.23説教から)。主に結ばれているならば、挫折してもまたやり直すことが出来ます。イエスを裏切った弟子たちも復活の命をいただいて、新しく立ち上がりました。病気と貧困の中にあった八木重吉も29年の生涯を実り多く生きることが出来、そして私たちに素晴らしい詩を残してくれました。  1.「良い羊飼い」の喩え   ・羊飼いの喩えは9章から続く文脈の中で語られている。9章でイエスは生まれつき盲人の目を開けられたが、その日が安息日だったため、ファリサイ派の人々は、イエスを安息日戒律の違反として責めた。イエスは反論された「あなたがたは何故、一人の人の目を神が開けて下さった、その良い業を喜ばないのか。あなたがたが思うのは自分のことばかりであり、託された羊のことではない。あなたがたは良い羊飼いではない」として、この喩えが語られている。羊は民衆、羊泥棒はファリサイ人、良い羊 ...・今日の招詞にヨハネ1:18を選びました。次のような言葉です「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。私たちは神を見ることはできません。神は霊だからです。しかし、イエスを通して、私たちは神を知ることができます。そして私たちが「イエスが神の子である」ことを知るのは、イエスの復活を通してです。よみがえったイエスは復活を信じることができなかった弟子トマスに言います「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(20:29)。イエスの復活顕現物語は、復活は信仰の目がなければ見えないことを伝えます。マリアは最初に復活のイエスと出会った時、その方がイエスだとはわからず、「マリア」という声を聴いてイエスが見えました(20:14)。エマオに向かう弟子たちも、イエスが同行されてもわからず、食卓のパンを裂かれるイエスの祈りを聴いて、わかりました(ルカ23:30-31)。信仰は見るのではなく、聞くことから始まるのです。それが「見ないで信じるものは幸い」だとの意味です。・その日の朝、復活のイエスがマグダラのマリアに現れたことを、彼らは聞いてはいました。しかし、イエスが復活されたとは信じていません。並行箇所のルカには「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(ルカ24:11)とあります。誰が「死人のよみがえり」など信じることが出来ましょう。その弟子たちにイエスが現れます。その時弟子たちは「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」(ルカ24:37)とルカは報告します。彼らにイエスはご自分の手とわき腹をお見せになられました。そこには十字架につけられた時の釘穴と、刺された槍の跡が明白に残っています。弟子たちはその傷を見て、ここにおられる方が、十字架で死なれたイエスであることをやっと信じることが出来、喜びに包まれます(20:20)。・20章はイエスが埋葬されてから三日目に、マグダラのマリアが墓に行くが、墓は空であったという出来事から始まります。びっくりしたマリアは弟子たちに報告し、ペテロたちが墓に急ぎ、墓が空であったことを確認します。しかし、それが何故かはわからず、家に帰ります(20:10)。マリアは一人墓に残り、泣いていました。イエスの遺体が盗まれたと思ったからです。そのマリアにイエスが現れ、彼女は驚き、そして喜び、弟子たちに報告します(20:18)。しかし弟子たちは半信半疑で、イエスが復活されたとは思っていません。それが日曜日の午前中の出来事でした。・ヨハネ福音書は紀元100年頃に書かれています。イエスの十字架と復活から70年経過し、イエスに出会った弟子たちも、その後継者たちもすでに亡くなり、教会を形成していたのは三代目、四代目の信徒たちです。彼らはもはや復活のイエスに会い、彼を見ることはできません。しかし礼拝の中で、彼らはイエスが復活されたとの福音を聞き、信じていくのです。イエスが最初に弟子たちに現れたのは死から三日目、主日の日曜日でした。次にトマスに現れたのは次の主日、同じく日曜日です。それが示唆しますことは、私たちは教会の礼拝の中で福音を聞くことにより、主であるイエスに出会うのです。ペテロは語ります「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」(第一ペテロ1:8)。礼拝の中でこそ、復活のイエスと出会い、そのことを通して、神に出会う事が可能なことを今日のヨハネのテキストは示します。感染症拡大の中で会堂に集まって礼拝を続けるのか、あるいは会堂礼拝はやめるべきか、多くの教会が迷いと困惑の中にあります。それを承知の上で、私たちは今日、会堂に集まりました。ここにイエスが臨在されると信じる故です。・イースターが終わり、ヨハネ福音書を読み続けています。今日与えられた聖書箇所はヨハネ20章、復活のイエスが弟子たちに現れた記事です。福音書の復活顕現伝承には、弟子たちはガリラヤでイエスに出会ったことを伝える記事(マルコ、マタイ)と、エルサレムで出会ったことを伝えるルカと二つの流れがありますが、ヨハネはエルサレムとガリラヤの双方の顕現伝承を伝えます。その記事が20章(エルサレム顕現伝承)と21章(ガリラヤ顕現伝承)にあります。今日は20章のエルサレムでのイエスと弟子たちの出会いを見ていきます。・イエスは怖れ怯えている弟子たちに言われました「あなた方に平和があるように」(20:19)。「あなた方は私を見捨てた。しかし私はここに帰ってきた。私はあなた方を責めない。人は弱い(マルコ14:38「心は燃えても肉体は弱い」)。だから私はあなたがたを祝福する」と。そして「聖霊を受けなさい」と言われます(20:12)。イエスの言葉に弟子たちは生き返ります。ここに二つの復活があります。「死からよみがえられたイエスの復活」と、「絶望と恐怖からよみがえった弟子たちの復活」の二つです。復活とは死んだ者をよみがえらせるだけでなく、今生きている者を、根底から変える力をも持つのです。・その日の夕刻、イエスが弟子たちの前に現れます。ヨハネはその時の光景を次のように記します「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(20:19)。弟子たちはイエスこそ、イスラエルを救うメシア、救世主だと信じて従って来ましたが、そのイエスは十字架で無力に殺されていきました。神はイエスを救うために何の行為も取られなかった。弟子たちは「イエスはメシアではなかった」と落胆し、生きる目標を失くし、打ち沈んで、家に閉じこもっていました。彼らは、イエスのために死ぬ覚悟を決めていましたが、いざとなると怖くなり、イエスを見捨てて逃げました。「自分たちはイエスを見殺しにした」、その自責と後悔の思いが彼らを苦しめています。また、イエスを捕らえた勢力が自分たちにも追求の手を伸ばしてくるのではないかと恐れてもいました。イエスが現れる前、弟子たちは、体は生きていましたが、魂は死んでいました。・人は理性だけでキリスト教信仰の中心的真理である復活にはたどり着けません。多くの人は言います「見たことのないものをどうして信じられよう。今、死人のよみがえりがないのに、どうしてそれが過去に起こったと信じなければならないのか」(レッシング)。「復活のような新約聖書の奇跡に類比的なものが現代にはない。今日起こらないことが二千年前に起こったとは考えにくい」(D.ヒューム)。復活顕現後の弟子たちはイエスのために喜んで死んで行きました。人は誤解では自分の命を投げ出さない。信仰者は復活が真実であることを知っています。ただ説明できない。何故ならば、それは体験すべきものだからです。ヨハネ20章のトマス物語はそれを示唆します。私たちは教会の共同の礼拝の中で福音を聞くことにより、イエスに出会うのです。だから礼拝は私たちにとって本当に大事な事柄です。

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